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佐村さん、聴こえてるか

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 誤解を与えるので一部削除しました。こちらは少し聞き間違えていましたので、訂正します。SMAPの稲垣さんの声のものです。これではちょっとわからないです。


 ただ聴こえないということに関して、完全には追及できていないです。少なくとも普通にぽんぽん会話が成立していたのなら、それは重度の聾唖ではないのではという疑念は残ります。全聾でしかも日常生活でもというような人物が下記のような義手のバイオリン少女みっくんらに対しての卑劣な要求はするかは疑問です。


 ただ細かいことも含め、今までいろんな人をよく見てきたのでわかりますが、杖やあの包帯必要ないですよね(ピアノほとんどできなかったらしいですから、そのためでしょうかね。弾かされないよう)。あの杖の動き、正直必要ないように見えます。均衡も不自然に見えます。仮に少しあったとしても、それを際限なく大きくして見せた感じでしょうか。そこまでしてイメージを作り込みたかったのかと。まるで放浪者のイメージであるかのように。音を巡って果てしなくさまよう。酔っていますね。

 
 ここまでするには少なくともイメージ作りに加担した連中がいるはずだが、それは例の○○ディレクターなのかーただ自分でものにできると進んで功名心から協力下に過ぎないのか、所属会社のプロモーションはどうなのか、彼の指示で
こうなっていったのか、ある時から極端に大きくと前へ前へと行く感じです。この間に何かあったはずですが、いかに。ゴーストライターや名義貸しが他の分やアニメや映画、漫画や音楽、芸能、文学、学術などでもそれ相応にあることもよく知っている(喰っていけないとそうせざるを得ない人たちのも。だからこそ既存のあれもあまり好きではないのだが)。それについて今さらうんぬんすることでもないが、それを褒めそやすのも、焚き付けるのも好ましくはない(残念ながらそうした人たちを今でも下に見る人は多くいる)。
 
 
 音楽を幼いころからやっていて卓越した能力を持つ天才児(その割には幼い頃の名声は全く聞かれないー隠していれば別だが特段隠したというようにも見えない)、ある時、耳が聴こえなくなってきて挫折、幾度か自殺未遂(これはなんとでも言える)、ゲーム音楽完成後になぜかカミングアウト(耳が聴こえなくなっていたと)、30代半ば辺りに完全に聴こえなくなる。大きな苦難ふりかかるも、大作(と思わせた)「HIROSHIMA」を完成(当初は全く広島今関係なしーなぜか勝手に広島にイメージづけられるー聴衆の目に触れ、耳の聴こえぬ作曲家(疑念あり)の大曲に音楽評論家、音楽家も目を付けはじめる。「HIROSHIMA」となぜか名づけられたこと、ここが大事。ここが転換期。ここに加担した奴はいるはず)。経歴も創作まじりの模様。

 
 その後も「バッハ」を思わせるかのような相変わらず~を意識した(つまり~であろうと入ってきてしまう人間に、ようはそうした意識を持った人間を巧妙に取り込もうとしていたとうことでもあります)ものなど幾つか発表、またそうした中で被災地や広島などを意識して積極的にプロモーションかける。より前へ前へと出てくる。当初はまだ控えめだった曲も大げさに。今に至るまで何年放置されていたのか、ああそれが大変悲しい<知ったのは例の後、そのため、苦労して全聾の作曲家(疑念あり)という先入観はバイアスなしに普通に聞いた当初の感想はやはりつぎはぎだらけのものという印象であり、新曲というよりもそこにあれこれとやたらに挿入した編曲というイメージでしかなかったが、会見後その経緯を確認、やはり、その認識は正しく、これこれをということで作られたものであった。聴けはするが何度もいうように名曲とはあまりに程遠い。名曲は聴いていてピーンと来るもの。全くなかったこれにそれはなかった>。
 
 
 コピーも見たがちなみにあれは作曲しているものとは言えず、あの程度の紙ならば誰でも書けるだろう-ちょっとその気になれば。ここはこうしてだとか、ああしてだとか、壮麗なだとか、厳格なだとか。結論付けてもやはり(全聾かという完全な断定は置いてー今後のきょくの行方でしかわかりかねるが。出てくればまだしも出てきもしないし)、

 
 作曲家ではない

 寧ろ、コピーライターとかイメージライターのような感じだ。音楽でコピーライターだという格好だとかっこつかないが。プロデュース力は他に誰かいなければあったのかもしれないが、聴衆を欺いて全聾唖と偽った可能性がある(全くもって聴こえず耳にも障害がというレベルの)ものであり、作為的に18年もの間、演じてきたのだとすればある意味、それは努力家でもあったのだろうーそれと評価するしないは別。ただそうではなくとも偽りで作曲家づらしてきたのは確か。いつからか、音楽に対して上に行きたいという欲求と、後々の積み重ねがあって、現代のベートーベンが肥大化し、神話化するにつれ、自身もその気になってしまったのだろう。ゆくゆくは「現代のベートーベン」を超え、「音楽としてのメシア」にでもなりきりたかったのだろうー壮大な試みだ。残した言葉の端々にそれが感じられる(命懸けで作曲していたーイメージだけ手渡し、時には鼻歌ということもあったかもしれない。作曲は全くしていないが、ここでもープロットのみ)。


 そうと知りつつ、加担してきた作曲した新垣氏も大きな責任はある(そのため、ともに損害賠償を要求される可能性も。ただ18年で700万、もらってというのはあまりに少ないとは思うが、割に合っていたのだろうか)。あまりに過剰であり、一程度の責任は伴う。だからと言って新垣氏の後の発表の場までこの後全て奪われるということは違うと思うが。


 低価でもやってきたのは単純に曲を作る楽しみもあり、実際発表もされるという喜びもあったゆえだろう。音楽家なら確かに出されるということは嬉しいーただ、異様に売れてしまったこと、曲が1人歩きしてしまって肥大化したこと、長らく詐欺に加担してしまった子と、本当は自分の教え子で会ったバイオリン少女、またその家族まで巻き込んでしまい、服従を強いられたことなど葛藤も大きかったのだろうーバイオリン少女ことみっくんー女の子です(本当は新垣氏の教え子だったが、なぜか使えると思われてだろうが、佐村河内守氏の愛弟子ということにされてしまっていた模様)ーこの子と家族は絶対服従を要求されていたようです。それらも今日にいたる要因でしょう。自伝も彼の話をほぼ丸ごと借用し、あたかも自分の話のように装っていたということー年少児など(聴いていた話を。あれ、聴こえてる?)ーもあったようですーそれもも「え~聞いてないよう」ということだったのでしょう。


  新垣氏はまじめで温和な人だったのでしょう。今はほっとしているのでは、重荷が取れて(一緒に作っていたという認識はあったのかもしれないーただ、少なくとも佐村河内守氏は作曲家ではない)。ただ責任がなくなることはないが。その後は自分のやりたい方向でできれば良いでしょう。佐村河内守氏は出てきて説明してくれたまえ。少なくとも希望を与えたかったのが本当なら。今の状況と向き合う必要はあるだろう。どこかでとめてもらいたかった気持ちはあったのかもしれない(これは希望的観測だが)。作曲家ではないが、佐村河内守をプロデュースしてきたというのなら確かにその面はあるのだろう。その才はあるかもしれない。限定的だが。どう出ればいいのか迷っているのかもしれないが。高橋選手の演技が終わるまで待つか、フィギュアの結果が出てからか、出るタイミングを見失うぞ。



 ただ、私はそうしたことは別用にある面では非常に簡単に作用することも良くわかっているし、選手らがマインドでということはトップレベルの選手であってもよくやるが、そう難しいものでもないことも知ってはいる。またそれは個々のレベルを超えてということも。1個人でなく。ただ、このような傾向が別ベクトルに向いた時、怖い相乗効果が起きるーそれは今回の例でもそう。それ以上に、もしもそれが一定方向に向いたのだとすればーそのベクトルに動かせるのだとすれば恐ろしいことも起こり得るー実際、日本では起きてしまったし、それ以上のこともありうるかと言われれば、イエスであり、日本がこうした状況下にあることは恐ろしいー今回の件でそれも感じた。それがプラスであってくれれば良い意味で作用するが)。

 
 今回のやり口は邪道ではあったが(受難の末に辿り着いた音楽の頂、そこから自分を削り、他の人に喜ばれるために、音を巡って果てしなくさまよう音の求道者、さまよい歩く放浪者であるかのようにー)、ただ、こういう形での音楽も虚飾を除けばありなのか、さもあらんとは思う。純粋に音楽に励めば、触れればだが。相乗効果が望めるのであれば。


 先に少し書いたが、今回の良し悪いは置いといて、これまで全く売れなかったクラシックにも光があたったのは不幸中の幸いか(当たり方はだめだったが)、はたまたダメなままなのか。他にも少し売れていったものもあるようだ。確かに敷居が高いと思われ、一部を除けば敬遠され、新しい客層をなかなか開拓できていなかった。それが少し光明が出たのは悪くはない気もするが(果たして、音楽を聴いていたか、物語に身を委ねたかったのかは別にして)。いや、冷静に考えて印象面でのマイナスは大きくぬぐえない。やはりダメだな。クラシックと聞くだけで避けられてしまうのではそれが心配だ。ただ、それらの人たちをこっち方面が好きになるよう育む必要もあるだろう。距離が遠いと思われている面もあるので工夫も必要だろう(音響も確かに非常に大事だが、もっと簡素化した形で触れ合っても良いかとー街中や駅。或はでデパートなどで聞こえてきたとしてもそれはそれで)。

 
 これが映画とか演出ならずっと良かったが、現実のものだけに複雑。ただ、驚きも含め、今ふとにわかに撮影したりしている人らのものなどよりもずっと面白くはある(不謹慎だが、少し)。またここまでのを創れるというと逆にあざとすぎてこうはそうそうできない。その意味で現実の方が凌駕しているぞ、ずっとーある意味、これが凄い。どうした、映画人、がんばれ。
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